私的PC史 ①「ワープロからパソコンへ」
大学を卒業した頃、ようやく市場にワープロなるものが出回り始めた。それまでにもワープロがあったことは知っているのだが、机サイズの大きさで、確か定価数百万円くらいだったと思うから、庶民に手が出るものではなかった。初めての職場で、隣に座っている事務職が、確かCASIOのワープロを操っていたのを覚えている。一行ディスプレイでしかも10文字くらいしか表示しない。その上に単漢字変換しかせず、印字できるのは16ドットというスゴイものだった。
次の年、職場を替わったのだが、この職場は漢字タイプライターが好きな人が何人もいて、その中の名人といわれる人は、あの数千も漢字が並んでいる中から、ものすごいスピードで目的の字を見つけて、これまたものすごいスピードでバシッと打っていた。その秋、この職場に「電動タイプライタ」が導入されたが、これは紙送りがオートになったことと、自動修正装置(修正ボタンを押すと一つ前に戻って修正テープをピタッと貼ってくれるというもの)がついただけに他ならない。
じっとワープロの行く末を睨んでいた僕だったのだが、生来の好奇心旺盛に勝てず、当時一番優れていると思っていた、東芝のルポが1行40字ディスプレイ、24ドット印字に変わったところで、12万円はたいて、とうとう買ってしまった。初めて職場に持って行った日、当然のことながらみんなが寄ってたかって大変だった。昭和60年の冬である。しかし、このルポ20、何といっても記憶装置がない。フロッピーディスクドライブは外付けで別売。しかもそれが5万円もする。仕方なく僕は、安かったデータレコーダー(カセットテープにデータを入れる装置)を買ってきて、打った文章を保存していた。これがまた、時間と根気の作業で、たったA4一枚の文章を保存するために、データレコーダーが「ジーコロ」と5分くらい動くのをじっと待つ。5分待った挙げ句に5回に1回は「書き込みエラー」と表示される。実際にこのルポは高いおもちゃのようなものであった。仕事上はほとんど手書きですませていた。ちなみに、このルポ20は、まだ残してある。もちろんデータレコーダーも。いつの日か、プレミアがついてくれることを願って。
そのうち、ワープロの使い勝手もずいぶ良くなって、一旦は、平べったくてカパッとディスプレイを持ち上げるラップトップ型よりもデスクトップ型の方が主流になり、いろいろ考えた挙げ句、NECの文豪に買い替えた。ミニ7シリーズである。結局、僕はこれを含めて3台の文豪を使い続けることになる。職場では、新たに2人がワープロを買い、書院、キャノワードと僕の文豪がそれぞれに性能を競い合った。最終的には、行間罫線が引けて、細かいものが書ける書院に軍配が上がり、以後、新しく誰かが買う場合や職場のものとして導入されたものは、すべて書院になった。僕はというと、生来のへそまがりが出て、一人、文豪を使い続けた。当時はコンバータなんて内蔵してなかったから、僕の作った者は、誰も利用できないでいた。それはそれでいいと思っていた。当時は、ワープロで文書を保存し、同じ機種を使うという利便性に浮かれて、前年の前担当者が作った提案文書の日付だけを換えて提案する馬鹿者がいたから、「オレの創り上げたものは、そうはさせない」とばかりに孤高を保っていたのだ。
ところで、昭和61年、僕はコンピュータ係になった。なぜ、生粋の文系の僕がそんな仕事になったのかというと、ある日、遅くまで仕事をしていて、一人になったところへ、とんでもなく遅い時間だったのに、富士通の人がやってきて、その年、導入されることになったパソコンを運び込んだ。やむを得ず、受け取りの業務を果たしたわけだが、ついつい生来の好奇心が出て、梱包をといて動かしてしまった。思えば、パソコンを触るのは初めてだったのに、何と無謀なことであっただろうか…。こういういきさつがあって、それからも暇があるとさわりまくっていたので、いつの間にか、「研修会に行け」と言われたりして、気がつけばそんな仕事をさせられていた。この16ベータというPCは、当然のことながらハードディスクなどなくて、DOSがかろうじて走るだけの512KのRAMがあるだけだった。それで動くソフトはというと、「COMAS」という熟語変換しかできないワープロソフト。これでは、熟成化してきたワープロ専用機に敵うすべもない。だから、後はお絵かきマシンとしての利用しかなかった。
ただし、PCを使ってやりたかったことが二つあった。その一つが表計算で、まだその頃のワープロ専用機には、表計算が搭載されていないか、搭載されていても機能が今一つだったりという有様だった。だから、それまで通り、電卓を使った手作業でこなしていた。で、16ベータが導入されてから、いろいろと調べたら、これで走る「スーパーカルク」なるソフトがあることを知った。もちろん、すぐさま手配して購入させた。今のエクセルなどから比べたら、それはそれは、処理も遅くて使い勝手も悪かったのだけど、当時としては斬新で、ずいぶんこのソフトには助けられた。
そして、もう一つのやりたかったことが、業務の割り振りである。当時は係になると様々な職種の業務時間や定例会議を、メチャクチャに多い諸条件も考慮しながら磁石のついたコマをボードに当てはめながら、人力で組んでいた。何人かの係で必死に頭をひねりながら徹夜するのだ。僕はその頃、この係でもあったので、「ようし、コンピュータを使ったら、人力で何日もかかる作業もほんの一瞬で終了し、しかも何通りも出力してくれるに違いない」と期待した。
そして、ある日、研修会で「業務編成ソフト」が渡され、使い方を教えてもらった。もちろん、僕が出席した。次の日、僕は高らかにみんなに宣言した。「今年はパソコンを使って組みますから」…そして、他の係2人に手伝ってもらって、データを打ち込みました。いよいよ、処理開始のボタンを押すのみ。とてもワクワクしましたねえ。ところがボタンを押すと「ただいま、処理中です。10分ほどお待ち下さい」というメッセージとコーヒーの絵が出てきた。嫌な予感が走る。そしてそれは的中。10分後、「…は処理できませんでした」「…は処理できませんでした」と5つも6つもコマをはじき出してきたのだ。しかもその後のメッセージがすごかった。「後は手作業で完成させてください」…ふざけるな。
このソフトが未熟だったのもあるが、いろんなところを探してみても、業務編成ソフトなど、後1~2種類くらいしかなく、どれも似たようなものだと聞いて、とてもガックリした。そして、それがそのまま、僕のパソコンのイメージになった。役に立たぬ箱…。それでも係ではあるし、一通りの研修会にも顔を出し、ベーシックを使った簡単なプログラムを動かしたりもしたし、MS-DOSの勉強もした。だが段々とワープロ専用機の性能が上がってきて、搭載される表計算も使い勝手がよくなってきたので、ますます気持ちはパソコンから離れてしまった。なのに、上の者は何も知らずに社員に向けて、このほとんど意味のないパソコンを格安で販売斡旋したものだから、結構多くの人が買って、そのまま埃をかぶる運命となった。当然のことながら、僕は買わなかった。
かくして僕はPCから、一旦は遠ざかった。そして職場が変わりその環境の中で止むを得ず、ワープロをNECの文豪からシャープの書院に換えた。最初に買ったX500というヤツをニ年間使いまくった挙句に壊してしまったので、97年の春に新しい書院に買い換えることにした。
いろいろと店を回ってみると、これまでとは全く違うシリーズのΓセリ工」というヤツが出回っていることに気づいた。これはワードプロセッサではなくて、マルチプロセッサと呼ぶそうだ。仕様を見ると1GBのハードディスクを搭載し、静止画を取り込めたり、スキャナ機能があったり、パソコン通信をするためにモデム機能も内蔵してぃると書かれている。その頃の僕はパソコン通信すら何たるものかもわかっていなかったし、ましてやその下に書かれていた先進機能のインターネットやメールなどというものはどのように使うものか想像もできなかったのである。それでもハードの搭載などは魅力的だったし、用紙の給紙トレイなど、ワープロ専用機としての最大の工夫も随所に凝らしてあったので、コイツを購入したのだった。そして、満足して使っていた。
ところが、またもや持ち前の好奇心というヤツがムクムクと頭をもたげてきて、せっかく搭載されている機能なのだし、一度そのメールとかインターネットとかパソコン通信とかいうヤツをやってやろうという気になって、「セリ工」のマニュアルを熟読し始めた。そしてパソコン通信のためにニフティサーブに、イン夕一ネットのためにINF0WEBに入会した。ところが、である。当然のことながら「セリ工」の画面は動画にも音声にも対応していなくて、おまけにメ一ルを送ろうにも相手もいないし、33Kモデムは時間もコストもかかるし、とにかくその時の僕の結論はネットもメ一ルも無用のものだということだった。せっかく入会したのにもったいない話ではあるが、春からその早の12月まで、一度も通信しなかったのだ。
(つづく)
次の年、職場を替わったのだが、この職場は漢字タイプライターが好きな人が何人もいて、その中の名人といわれる人は、あの数千も漢字が並んでいる中から、ものすごいスピードで目的の字を見つけて、これまたものすごいスピードでバシッと打っていた。その秋、この職場に「電動タイプライタ」が導入されたが、これは紙送りがオートになったことと、自動修正装置(修正ボタンを押すと一つ前に戻って修正テープをピタッと貼ってくれるというもの)がついただけに他ならない。
じっとワープロの行く末を睨んでいた僕だったのだが、生来の好奇心旺盛に勝てず、当時一番優れていると思っていた、東芝のルポが1行40字ディスプレイ、24ドット印字に変わったところで、12万円はたいて、とうとう買ってしまった。初めて職場に持って行った日、当然のことながらみんなが寄ってたかって大変だった。昭和60年の冬である。しかし、このルポ20、何といっても記憶装置がない。フロッピーディスクドライブは外付けで別売。しかもそれが5万円もする。仕方なく僕は、安かったデータレコーダー(カセットテープにデータを入れる装置)を買ってきて、打った文章を保存していた。これがまた、時間と根気の作業で、たったA4一枚の文章を保存するために、データレコーダーが「ジーコロ」と5分くらい動くのをじっと待つ。5分待った挙げ句に5回に1回は「書き込みエラー」と表示される。実際にこのルポは高いおもちゃのようなものであった。仕事上はほとんど手書きですませていた。ちなみに、このルポ20は、まだ残してある。もちろんデータレコーダーも。いつの日か、プレミアがついてくれることを願って。
そのうち、ワープロの使い勝手もずいぶ良くなって、一旦は、平べったくてカパッとディスプレイを持ち上げるラップトップ型よりもデスクトップ型の方が主流になり、いろいろ考えた挙げ句、NECの文豪に買い替えた。ミニ7シリーズである。結局、僕はこれを含めて3台の文豪を使い続けることになる。職場では、新たに2人がワープロを買い、書院、キャノワードと僕の文豪がそれぞれに性能を競い合った。最終的には、行間罫線が引けて、細かいものが書ける書院に軍配が上がり、以後、新しく誰かが買う場合や職場のものとして導入されたものは、すべて書院になった。僕はというと、生来のへそまがりが出て、一人、文豪を使い続けた。当時はコンバータなんて内蔵してなかったから、僕の作った者は、誰も利用できないでいた。それはそれでいいと思っていた。当時は、ワープロで文書を保存し、同じ機種を使うという利便性に浮かれて、前年の前担当者が作った提案文書の日付だけを換えて提案する馬鹿者がいたから、「オレの創り上げたものは、そうはさせない」とばかりに孤高を保っていたのだ。
ところで、昭和61年、僕はコンピュータ係になった。なぜ、生粋の文系の僕がそんな仕事になったのかというと、ある日、遅くまで仕事をしていて、一人になったところへ、とんでもなく遅い時間だったのに、富士通の人がやってきて、その年、導入されることになったパソコンを運び込んだ。やむを得ず、受け取りの業務を果たしたわけだが、ついつい生来の好奇心が出て、梱包をといて動かしてしまった。思えば、パソコンを触るのは初めてだったのに、何と無謀なことであっただろうか…。こういういきさつがあって、それからも暇があるとさわりまくっていたので、いつの間にか、「研修会に行け」と言われたりして、気がつけばそんな仕事をさせられていた。この16ベータというPCは、当然のことながらハードディスクなどなくて、DOSがかろうじて走るだけの512KのRAMがあるだけだった。それで動くソフトはというと、「COMAS」という熟語変換しかできないワープロソフト。これでは、熟成化してきたワープロ専用機に敵うすべもない。だから、後はお絵かきマシンとしての利用しかなかった。
ただし、PCを使ってやりたかったことが二つあった。その一つが表計算で、まだその頃のワープロ専用機には、表計算が搭載されていないか、搭載されていても機能が今一つだったりという有様だった。だから、それまで通り、電卓を使った手作業でこなしていた。で、16ベータが導入されてから、いろいろと調べたら、これで走る「スーパーカルク」なるソフトがあることを知った。もちろん、すぐさま手配して購入させた。今のエクセルなどから比べたら、それはそれは、処理も遅くて使い勝手も悪かったのだけど、当時としては斬新で、ずいぶんこのソフトには助けられた。
そして、もう一つのやりたかったことが、業務の割り振りである。当時は係になると様々な職種の業務時間や定例会議を、メチャクチャに多い諸条件も考慮しながら磁石のついたコマをボードに当てはめながら、人力で組んでいた。何人かの係で必死に頭をひねりながら徹夜するのだ。僕はその頃、この係でもあったので、「ようし、コンピュータを使ったら、人力で何日もかかる作業もほんの一瞬で終了し、しかも何通りも出力してくれるに違いない」と期待した。
そして、ある日、研修会で「業務編成ソフト」が渡され、使い方を教えてもらった。もちろん、僕が出席した。次の日、僕は高らかにみんなに宣言した。「今年はパソコンを使って組みますから」…そして、他の係2人に手伝ってもらって、データを打ち込みました。いよいよ、処理開始のボタンを押すのみ。とてもワクワクしましたねえ。ところがボタンを押すと「ただいま、処理中です。10分ほどお待ち下さい」というメッセージとコーヒーの絵が出てきた。嫌な予感が走る。そしてそれは的中。10分後、「…は処理できませんでした」「…は処理できませんでした」と5つも6つもコマをはじき出してきたのだ。しかもその後のメッセージがすごかった。「後は手作業で完成させてください」…ふざけるな。
このソフトが未熟だったのもあるが、いろんなところを探してみても、業務編成ソフトなど、後1~2種類くらいしかなく、どれも似たようなものだと聞いて、とてもガックリした。そして、それがそのまま、僕のパソコンのイメージになった。役に立たぬ箱…。それでも係ではあるし、一通りの研修会にも顔を出し、ベーシックを使った簡単なプログラムを動かしたりもしたし、MS-DOSの勉強もした。だが段々とワープロ専用機の性能が上がってきて、搭載される表計算も使い勝手がよくなってきたので、ますます気持ちはパソコンから離れてしまった。なのに、上の者は何も知らずに社員に向けて、このほとんど意味のないパソコンを格安で販売斡旋したものだから、結構多くの人が買って、そのまま埃をかぶる運命となった。当然のことながら、僕は買わなかった。
かくして僕はPCから、一旦は遠ざかった。そして職場が変わりその環境の中で止むを得ず、ワープロをNECの文豪からシャープの書院に換えた。最初に買ったX500というヤツをニ年間使いまくった挙句に壊してしまったので、97年の春に新しい書院に買い換えることにした。
いろいろと店を回ってみると、これまでとは全く違うシリーズのΓセリ工」というヤツが出回っていることに気づいた。これはワードプロセッサではなくて、マルチプロセッサと呼ぶそうだ。仕様を見ると1GBのハードディスクを搭載し、静止画を取り込めたり、スキャナ機能があったり、パソコン通信をするためにモデム機能も内蔵してぃると書かれている。その頃の僕はパソコン通信すら何たるものかもわかっていなかったし、ましてやその下に書かれていた先進機能のインターネットやメールなどというものはどのように使うものか想像もできなかったのである。それでもハードの搭載などは魅力的だったし、用紙の給紙トレイなど、ワープロ専用機としての最大の工夫も随所に凝らしてあったので、コイツを購入したのだった。そして、満足して使っていた。
ところが、またもや持ち前の好奇心というヤツがムクムクと頭をもたげてきて、せっかく搭載されている機能なのだし、一度そのメールとかインターネットとかパソコン通信とかいうヤツをやってやろうという気になって、「セリ工」のマニュアルを熟読し始めた。そしてパソコン通信のためにニフティサーブに、イン夕一ネットのためにINF0WEBに入会した。ところが、である。当然のことながら「セリ工」の画面は動画にも音声にも対応していなくて、おまけにメ一ルを送ろうにも相手もいないし、33Kモデムは時間もコストもかかるし、とにかくその時の僕の結論はネットもメ一ルも無用のものだということだった。せっかく入会したのにもったいない話ではあるが、春からその早の12月まで、一度も通信しなかったのだ。
(つづく)
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